2005-05-01から1ヶ月間の記事一覧

三世代の遊びの変化調べる

少々古い話になりますが、東京・世田谷区の「子どもの遊びと街研究会」というグループが、昭和59年に、『三世代遊び場図鑑―町が僕らの遊び場だ!』(B5版・170頁)という、時代別に分けた子どもの遊びの変化を調べた冊子を作りました。 質量共に減る…

「子どもと戦争」を省みて

軍国少年として育つ 小学校、いや国民学校でした。その3年生くらいのときだったと思う。母が洗濯か何かしているとき、そばにいた私に突然母が「あんたは大きくなったら何になりたいと思う?」と問いかけてきた。 殆ど考えたこともない問題だったが、私はと…

子どもと家庭(5)

子どもの仕事いろいろ 雪の来る前急いで集めた焚付けや薪材 当時の田舎屋は、かなり広い玄関から炊事場まで、土間になっていた。土間は、雨の日や夜などの作業場になった。また、炊事場として、竈(かまど)や水瓶などが据えられていて、調理台なども立った…

子どもと家庭(4)

子どもの仕事いろいろ 家畜の餌やりや餌となる草刈り 馬や牛を飼っている家の子どもは、小学校高学年ともなると、学校から帰った夕方には、桶の中へ「押し切り」とかいう大きな刃のついた道具で藁や草を細かく刻み入れ、米糠と水で混ぜて馬や牛の飼料をつく…

子どもと家庭(3)

子どもと農作業の手伝い 春の農繁期休学 戦前・戦中・戦後のしばらくの間、小学校(国民学校)では、初等科、高等科の全生徒に2週間くらいの農繁期休学があった。家で農作業の手伝いをさせるためだった。 低学年の子は、幼い弟、妹の子守りや、無理のない仕…

子どもと家庭(2)

食料難は深刻になるばかり 我が家に5家族26人が同居 太平洋戦争が本土にもおよぶようになって、我が家にも親戚が次々と疎開してくるようになり、最も長く居た一家は5,6年にもなった。 中でも、終戦前後の1年間は、県内の中核都市まで空襲で焼失したこ…

子どもと家庭(1)

灯火管制下空爆は日に日に激化 米空軍機による空爆が、日に日に激しさを増した。ラジオ放送は、連日のように、敵機来襲による空爆の模様を伝えていた。家の中は、「灯火管制」が厳重に布かれていて、田舎といえども少しの明かりも外へ漏れることは許されなか…

子どもと地域社会(2)

大戦は静かな部落を一変させる 部落は、中心部に火の見櫓が立ち、その脇に大人30人ほど入れる部落公会堂があり、防火当番の詰める番小屋と手動の消防ポンプを収納する建物などが併設されていた。 そんな部落で変化があるといえば、たまに遠くの火事を知ら…

子どもと地域社会(1)

トントントンカラリント“隣り組み” 大戦中、“隣り組み”の歌が流行った。「とんとんとんからりんととなりぐみ、しょうじをあければかおなじみ、まわしてくださいかいらんばん、たすけられたり、たすけたり」といった歌詞だったように思う。 ラジオでもよく流…

国民学校初等科の教師と授業(7)

学校現場もとまどう戦後の混乱 戦前教育の象徴は次々姿消す 1945年(昭和20年)の9月から始まる2学期の学校は、子ども心にも、真に頼りないものだった。 それまで重視されていた国史や修身、武道などの授業は取りやめられた。また、教科書も、新しい…

国民学校初等科の教師と授業(6)

家に持ち帰った作業のいろいろ 桑の皮むきを学校から命じられ 教師から農家の子どもたちに、養蚕に使う桑の木の皮をむいて学校に持ってくるよう、いいつけられた。 我々の村は、養蚕が盛んだった。畑には、蚕の餌となる桑の葉を摘んだ後の径だけが沢山残った…

国民学校初等科の教師と授業(5)

学校といえども生徒を戦争にかりたてた 満蒙開拓義勇軍に生徒を送るに必死の学校 国民学校5、6年生になって分かったことだが、教師は毎年、高等科2年の卒業生の中から1〜2人の満蒙開拓義勇軍に志願する生徒を推薦していた。国からの要請があったのだと…

国民学校初等科の教師と授業(4)

授業で正規の科目はほとんどできずに 農場づくり・松脂(まつやに)採集・勤労奉仕の日々 敗戦までの1,2年間は、正規の授業は本当にわずかしかできなかったように思う。とくに5,6年の高学年になると、学校農場にかりだされ、野菜や中でもジャガイモ、…

国民学校初等科の教師と授業(3)

敗戦で武道(木刀、薙刀)の必須科目消える あわれ木刀・薙刀は灰に 戦時中の体育必須科目で、5年、6年になると、男子は木刀、女子は薙刀で武道の教科が新たに加わった。もちろんその武道は、高等科まで続く。校舎のかなり広い一隅に、木刀や薙刀を掛ける…

国民学校初等科の教師と授業(2)

青年教師は大の古巣・海軍びいき 現役軍人が学校で教練などを指導 高等科の生徒を対象に、現役軍人が教練などの指導をするようになった。また、婦人会のお母さんたちに、竹やり訓練も始めた。 私どものクラスでは、3年間担任だった女性のO先生が、やっと担…

国民学校初等科の教師と授業(1)

教師難の時代か代用教員が多かった 男性教師は、年配の教師が多く、若い教師は少なかったように思う。私の通った国民学校は、教師不足の時代に加え、かなり田舎の学校だったから、僻地にちかく、教師の確保もたいへんだったらしい。それに当時の若者は徴兵制…

小学校は国民学校に変り

戦争はめざましい進攻から始まった 私が小学校2年になる4月(1941年、昭和16年)から、国民学校と名称が変った。そして、この国民学校は、初等科6年、高等科2年の通算8年が、義務教育となったことを、後年知った。 その年の12月8日、日本は米…

小学校は第2次大戦のさなかで

学校・地域・家庭を舞台にした”子どもと戦争” 私が小学校2年のとき、昭和16年12月8日、日本は米国、英国に対し宣戦布告し、第2次世界大戦に参戦した。 その日の朝、学校に行って知った。遠いむかしの幼いころのことだが、いまだによく覚えている。よ…

戦後、野球などの球技が爆発的に流行りだす

一番人気はなんといっても野球 戦後になると、野球やサッカー、バレーボール、ドッチボール、ソフトボール、卓球などの球技が、堰を切ったように流行りだし、それまでの子供たちの遊びを大きく変えるような転換がおきました。 しかし、いずれの球技も、ちゃ…

村祭りに心躍らせた日々

ミコシの飾りは子供たちの手で 並んだ屋台には宝物がいっぱい どこの村や町でも、幾つかに分れた地域で、それぞれ鎮守の森を舞台にした春祭りや秋祭りがありました。 この日ばかりは子供たちも晴れ着を着て、ミコシや神楽に興じ、何といっても一番の人気は、…

ギャングエイジ時代の遊び?

悪童が本領発揮するとき たかが子供の遊び? と見過ごせないような悪戯というか、悪さをする遊びも結構いろいろありました。 典型が、柿ドロボーやスイカドロボーでしょう。徒党を組んで、よその家の屋敷や畑で実る柿やスイカ、梨、桃、アンズ、ブドウなどの…

用具のいらない体だけの遊び

相撲は互いに相手を知るいい機会に 村の神社の境内などに、簡単な土俵が作られていました。子供らは、その土俵を使うこともありましたが、多くは校庭の端や、下校後だとちょっとした空き地に丸い輪を描き、よく相撲をとっていました。 子供らの相撲は自己流…

用具のいらない身体だけの遊び

とくに遊び用具がなくても、仲間さえ集まれば、人数や場所に応じて、さまざまな遊びがやられていました。 広い場所なら「三軍」という遊び、中程度の広場では、「馬乗り」や「三角ベース」など、「押しくら饅頭」や「相撲」は、そう広い場所は要りません。 …