「子どもと戦争」を省みて

軍国少年として育つ

小学校、いや国民学校でした。その3年生くらいのときだったと思う。母が洗濯か何かしているとき、そばにいた私に突然母が「あんたは大きくなったら何になりたいと思う?」と問いかけてきた。
殆ど考えたこともない問題だったが、私はとっさに「飛行兵になって空で敵機と戦い、最後は戦死する」という意味のことを答えたと記憶している。そんな私を母は、何も言わずにただ見つめていたように思う。
もう私は、軍国少年に育っていた。恐らくそんな答えがとっさに出るのも、学校で教師に示唆されていたからだと思う。やはり教育の力は大きい。そんな皇民教育を2年生から6年生の敗戦時まで、丸々受けて育った世代だった。
そんな当時を振り返って思うに、田舎の国民学校は、直接爆撃などにさらされることはなかったが、『子どもと学校』『子どもと地域社会』『子どもと家庭』で述べてきたように、決して戦争と無縁ではなかった。というよりむしろ濃密に関わってきたように思う。

教師らも時局に疑問をはさめなかった

母たちとともに、子供といえど戦時中の銃後で支え、学校では軍国少年として、やがて戦場に赴く準備期間になっていた。軍人を再生産する世代として位置付けられていたのだろう。子どもを産めよ増やせよの時代だった。働きバチ、ならぬ兵隊バチを大量に必要とした時代だった。
教師たちは、それに何の抵抗もなく受け入れ、国の方針に忠実に従っていたように思う。教師たちも、当時の時局に疑問をはさんだり、抵抗するなどということは考えもしなかったろう。時代が時代だったということであり、子ども心にも時局を疑問視する教師がいたようには思えなかった。
だから、子どもらは、国の将来を担う人材というより、戦場に赴く消耗品として位置付けられていたようにさえ思う。

天皇として君臨した教師ら

そんな思いを濃くしたのは、ベテランの男性教師らが、先生というより「小天皇」として生徒の前に君臨したからだ。説教や訓示などのさい、突然声を張り上げて「キヲツケ!」と、号令を掛けた後、「おそれおおくも、てんのうへいかにおかれましては……」とやるのが常であった。「このてんのうへいか」がでると、それは先生の言葉ではなく、天皇の言葉として聞き、従うことを示唆していた。
これも戦後、映画や小説などの軍隊を扱った場面のなかで、上官が「キヲツケ!」「おそれおおくもてんのうへいか……」とやっているのを見聞きして、そうかこれは軍隊式のやり方だったんだ、と知った。そして、この「キヲツケ!」を言えるのは、上官だけで、上官が部下や自分より下の軍人に向かって都合よく使うことも結構多かったらしい。戦争中はそんな小天皇がいっぱいいたのだろう。学校もご多分に漏れなかった、というほかはない。

戦時中の「連帯責任」は敗戦後の「一億総懺悔」に通じる

また、戦争中は、何かにつけて「連帯責任」という言葉がよく使われ、実際に連帯して責任を取らされた。クラスの誰かが問題を起こすと、クラス全員で罰を受けるのだ。校庭の草むしりや清掃であったり、ときに生徒を2列に並ばせて向き合わせ、互いに相手の頬を交互に平手打ちする、ピンタを張る、といった軍隊式のことまで初等科の幼い生徒にやらせた教師もいた。
 当時よく流行った言葉に、「一億一心」とか、「一億一心火の玉」となって聖戦に勝利する、といった使い方がされた。国民が心を一つに合わせることの大切さを盛んに植え付けられたものだった。
この「連帯責任」や「一億一心」は、戦後の日本社会で、敗戦を「一億総懺悔」という形で、敗戦の責任をうやむやにしたことと通じ合うように思う。

未来に向かって

子どもも、大戦の影響を広く深く受けて育った。そして思ったことは、無謀な戦争に突き進むのに、大人は何で黙して反対しなかったのかと、大人不信に陥ったことを覚えてる。以後の教育の影響もあったろう。そして、必要なのは、必要な声をいかに社会に発していけるか、という思いを強くしたことも事実だった。
だが果たして、今日の社会の動きを見るとき、どれだけその思いが生きているのかはなはだ心もとない。しかし、子や孫の世代に我々の時代のような経験を2度とさせたくないという思いは、なんとしても忘れてはならないと思う。そのための思いを、遠い過去から断片的に思い出しながら綴ってみたのが、拙文「子どもと戦争」です。