国民学校初等科の教師と授業(1)

教師難の時代か代用教員が多かった

男性教師は、年配の教師が多く、若い教師は少なかったように思う。私の通った国民学校は、教師不足の時代に加え、かなり田舎の学校だったから、僻地にちかく、教師の確保もたいへんだったらしい。それに当時の若者は徴兵制度で、軍隊にとられたり、進んで志願する人もいて、それらのことも若い男の教師が少なかった原因かもしれない。
そこへいくと、若い女性教師は結構いたし、理由はよく分らなかったが、変わるのも早かったように思う。そして、多くは代用教員だったらしい。そんなとき、新任の女性教師が、村出身の小学校OBで師範出だということから、とくに校長だか教頭先生が朝の朝礼で、誇らしげに紹介していたのを覚えている。18歳とかいっていたから、師範予科の卒業だろうと思うが、当時の田舎の学校の教師としてはエリートだったのだろう。

体罰にプライドもずたずただった授業

私らのクラスは、4年まで女性教師で、一年のときはベテランの円熟した女性教師だったが、2年から4年までの3年間は、小太りで体格のいいOという若い女性教師が担任になった。
O先生は、教師になりたての代用教員で、恐ろしく張り切っていた。生徒の名前は全て呼び捨て……、といっても、当時の教師はみんな、姓では呼ばず、名前だけを呼び捨てにしていた。
また、遊戯練習などのさい、子ども同士ふざけて押しあったり、蹴り合っただけで、男子生徒には容赦なくピンタを張った。張られた頬は、しばらくヒリヒリするほと痛かった。が、何よりプライドも傷ついた思いは忘れることができない。
当時、我々の学年は、2学級に分かれていた。「男女7歳にして席を同じゅうせず」の時代だったが、教室はどちらも男女各半数がいた。ただ、2人掛けの机と椅子は、男同士、女同士で、教室も左右に男女が半々に席を占めていた。
その女の子が半数いるところで、教師から大声で罵られながら、思い切りピンタを張られるのは、子どもとはいえ、大いに自尊心が傷ついた。もっとも、当時の教師は、誰でも生徒をよく殴ったものだ。

国史で神話も実の歴史として教わる

ところで、当時の授業で、国史というのがあった。国の歴史を教えるのだが、国の成り立ちに力を入れていたように思う。初等科何年のころか忘れたが、この時間は教頭先生が直々にお出ましとなり、とうとうと語った国史は、イザナギノミコト、イザナミノミコトから始まる神話の世界で、実の日本の歴史として教えられた。
詳しい内容はとっくに忘れたが、いまだに忘れられないのは、死んだ妻のイザナミノミコトを追いかけて、夫のイザナギノミコトが”黄泉の国”(「ヨミのくに」死後の国)に行ったり来たりするくだりがあった。不思議な話しだと思いながら聞いていたが、まあ、聞いていて国史というのはその程度の理解しか出来なかったように思う。
国民学校と名称を変えたり、国史などという世界で通用しない教科を組んだのも、日本という「世界で特別の国」を子どもらにしっかり教え込みたかったからであろう。
国民学校となって8か月後には、大東亜戦争に突入していた。そして、子どもらは「天皇陛下のために戦え。決して生きて帰るなどと思うな。生きて虜囚の辱めを受けるなら死をえらべ。死して陛下の御元に返れ」と、ことあるごとに教えられた。
戦局が進み、日本軍に悪化の兆しが濃厚となるころ、現役の兵士が学校に指導にきて、先生らのトーンは一層上がっていった。